ゴー宣DOJO

BLOGブログ
倉持麟太郎
2017.9.24 23:02

ラトルのベートーベンと10月8日のゴー宣道場

久々の投稿である。
人にはいろいろなスタイルがあると思うが、私はやはり私なりのスタイルでしか私らしく思いを表現できないので、いつも通り、狂気じみた長文で記す。
最後までお付き合い願いたい。

過日、サイモンラトル指揮、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の来日演奏会で、ベートーベンの交響曲全曲演奏を聴いた。五日間で1番から9番まで一気に演奏し、公演当日には、驚いたことに天皇陛下がいらしていた。天皇皇后両陛下は楽章間にお顔を近づけながらそれぞれの楽器の評価など微に入り寸評なされていたことが印象的であった。
その他の日も国務大臣、その他有名人が多数詰めかけていたが、いったいどれだけがこの演奏会の本質を理解していただろうか。

サイモンラトルはイギリス出身の指揮者で、もともとは打楽器奏者。なので、非常に縦線(リズム)がしっかりとしている、と同時に、クラシック音楽は一回死んだ、だから何やってもいいじゃん、という気配がプンプン漂っている。そんなラトルが最初に手にした主たるポストがバーミンガム市交響楽団であった。ラトルは一地方オーケストラであった当楽団を、世界的なオーケストラへと一気に成長させ、ラトルが、いわゆるオーケストラビルダーとしての手腕も世界に見せつけた、そんな“名コンビ”であった。

クラシックを自由に料理したいシェフが、地方オケというこじんまりしたレストランの料理長になれば、自由という言葉の語義上可能な最大の自由演技をするのは想像に難くない。ラトルは、バーミンガム市交響楽団において、既存の解釈にとらわれないとても“トガった”演奏をして、一躍世界のスターダムにのしあがった。

そして、2002年、ラトルは現職のベルリンフィルハーモニー管弦楽団の音楽監督という地位を得る。ベルリンフィルハーモニーといえば、音楽政治界の頂点、(現在は一概にそうとはいえないが)現実国際政治のアメリカ大統領のようなもので、音楽界においてもっとも影響力の強いポストの一つであることに異論をはさむ人間はいないはずだ。

 しかし、この伝統と格式と権力の匂いがプンプンするポストに就いたラトルを聞いたとき、私はクビを傾げた。

 ラトル先鋭的な表現の代表者である。ヨーロッパの地方オケを乗り回して思うがままやる分にはおもしろいが、ベルリンフィルではコントロールもきかない(楽団員たちのプライドも高い)し、ベルリンフィルもラトルのやりたいことをそのままやるとは思えない。前任のアバドの音楽はアバド自身になんのビジョンもないため実に凡庸で退屈だったが、それとはまた違う、双方が良さを相殺・減殺しあってしまう、不幸な関係なのではないかと、心配したのだ。

 実際、ラトルのある種の小細工と、ベルリンフィルの意思やスケール感が衝突し、ラトル&ベルリンフィルのコンビは、初期のころは水気のない殺伐とした、それでいてスケール感も小さい演奏が多かった。ディスクで聞いてもおわかりいただけると思う。

 しかし、先日のラトル&ベルリンフィルのベートーベンは、違った。

●音楽の「豊かさ」とはなんだろう。それは、「寄り添う力」である。

ベートーベンの音楽はもちろんのこと、音楽とは一面的ではない、この上ない喜びや安堵、心臓を焼いてしまいそうな嫉妬や憎悪、そして感情を閉ざしてしまった冷たさ、心にグラデーションがあるとすれば、そのすべてをとらえ、表現している。この感情のグラデーションの幅が広く、また、同時にグラデーション同士の隙間が狭い、つまり、細かいグラデーションを形成している音楽が、「豊かな音楽」である。食べ物の味と一緒である。私は和食が大好きだが、味のグラデーションが実にきめ細かい。対極にあるのが「大味」な料理だ。

音楽のもつきめ細やかなグラデーションは、必ずどこかで、我々一人一人の心の波動とオーバーラップする。そのとき、人は音楽とともに生きているような感覚になる。音楽の共感力とでも言おうか。

このグラデーションをどれだけ多彩にきめ細やかに表現できるのか、音楽的に言えばポリフォニックに、同時多層的に表現できるかが、音楽の豊かさを決める。これが乏しい音楽は、実に一面的で、退屈である。

●ラトル・ベルリンフィルのベートーベン

 ベートーベンの交響曲を聴く機会はある、しかし、全曲通して、しかもライブで一流のオケと指揮者で一気に聞くことは極めてまれである。

 普通のコンサートは、前半と後半にわかれていて、どちらかでベートーベン、あるいは、両方ともベートーベンということはある。どちらにしろ、単発だ。また、もし連続演奏会があったとしても、それにすべて行けるということもまれだ。

 CDがあるじゃないか!という声も聞こえてきそうだが、あくまでCDCDだ。ライブではない。

音楽は聴覚で感知するものではない、音楽は「体験」である。だからこそ、極論、ライブで聞かなければ、わからない。何回も同じ条件で再生できるものなど、本来は体験としての音楽とは呼べない。チェリビダッケが、「CDは写真のようなものだ」と言っていたことがあるが、言いえて妙である。あのときあそこに旅行に行って綺麗な景色だった、ということは繰り返し写真を見ながら楽しめても、その体験とは別である。体験は一回だ。ましてや、いったこともない場所の写真を眺めてその風景を論評するとき、それは体験を経ていないことから、あくまで体験を離れた、それとは独立したものを認識して、価値判断していることになる。

今回、私は生まれて初めてベートーベンの交響曲の全曲をライブで通して聴いた。

ベートーベンの交響曲は、彼が年齢を重ねるのと歩みを同じくして作曲されているから、彼の人生の年表をそのまま追体験しているのと同じような経験になる。

 そんなベートーベンの交響曲、ラトルとベルリンフィルによる全曲演奏。私は予想もしていなかった、とても意外な体験をした。

徹頭徹尾、1番から9番、最初から最後まで、ラトルのベートーベンは、「明るかった」のである。

 そう、ラトルは、あえて、極めて意図的に、ベートーベンの持つ「明るさ」を執拗なまでに強調し、麻薬のように繰り返し繰り返し私たちの眼前に示して見せたのだ。

 ベートーベンはその生涯(耳が聞こえない)の不幸さと運命交響曲の「ダダダダーン」のような楽曲のイメージで「暗い」「重たい」という印象が強いのではないだろうか。

 しかし、そもそも1番から9番まで通して聴くということが稀有であるが、これを通して聴くと、そして、今回のラトルの演奏で聞くと、まったく印象が違うのだ。

 雑駁に、「暗い」イメージの楽曲は、3番の2楽章、5番の1楽章、7番の2楽章、9番の1楽章、これくらいのものだ。あとは、極めて明るく前向きな音楽として、ホールに響いたのである。

 私は、この愚直、否、異常なまでのラトルによる「明るさ」や「前向きさ」の演出に、単純に心を打たれた。ここまではある種傷つくことを恐れずない無防備さで「明るさ」「前向きさ」をひたむきにライトアップする姿に、胸が熱くなった。

 楽団員は1番では若き日のベートーベンの躍動感に体を揺らし、3番は疾走と輝きの第一楽章から、大団円を描いた。5番の4楽章コーダで登場するフルートのパユは、まるで歌舞伎の千両役者のようで、思わず「●●屋!」と叫びたくなるくらい艶やかだった。6番では木管全員が、皆、体を傾け目くばせしながら笑顔でアンサンブルを奏で、終楽章の最後の再微弱音のパッセージは、最期の言葉をささやく声を聴かせるようで聴衆の耳と心を奪った。7番では弦楽器が奏でたもてるあらゆる演奏法のバリエーションは閃光のようにまぶしく、9番の合唱付きの部分では、演奏していない楽団員は、それぞれが大声で喜びの歌を歌っていた。楽団員全員から、明るさや前向きな楽観主義が、にじみ出ていた。

 ある人は、これをナイーブで短絡的で楽観的な表現だというかもしれない。しかし、それは、ここまで振り切れたポジティブな演奏への“嫉妬”に近い。あるいは、そこまで愚鈍に明るさに徹することへの「恐怖」といってもいいかもしれない。人は、明るさや楽観主義に振り切っている表現や存在に、どこか憧れ、そして、自分では決してそうはなれないからだ。

 事実、ベートーベンは、現実がとても辛かった。辛くて耐え難い現実にいた彼の魂を理念・理想の世界に放流した、それが、嘘くさいまでの明るさに結実しているのだ。命題としては、「暗から明へ」「苦悩から歓喜へ」「混沌から秩序へ」という、5番や9番の交響曲の主題であり、これは、後年のブラームスやチャイコフスキーに連なっていく。

 すなわち、9つの交響曲には、ベートーベンが決して夢想家が妄想に逃げた無責任な明るさではなく、ベートーベンがこの過酷で厳しい現実を生き抜くために、その魂の救いとして描いた理念・理想としての「明るさ」がこの9曲の交響曲の中には絵巻物的にちりばめられているのだ。

 私は、ラトルが、ベルリンフィルとのコンビ最終盤に(2018年で契約終了である)、命を燃やして、魂を賭けて表現した、この理念・理想としての「明るさ」に、この世界への希望を感じた。強靭な意思を感じた。負けない、つぶされない、そして、伝える、という強靭な意思だ。

 そこには確信があった。もし明日法律が変わって、自分がした表現が突如違法となり断頭台に立たされたとしても、それでもかまわないという、表現への確信があった。

 このラトルの演奏を聴いて、私も確信した。迷いなく希望を語るべきだと。未来に対して絶望と希望どちらも語れるのであれば、希望を語ることに全人格を傾けようと。

 そして、時代もそれを要請している。今までのブログでも散々触れてきた通り、今日本社会に欠落しているのは普遍的価値であり、それへの渇望と充足である。

 だからこそ、愚鈍だろうが、ナイーブだろうが、何と言われようと、ここまで論じてきた自由や権利という普遍的価値を大真面目に語りたい。そして、それを実務家として実現するためにすべてを捧げたい。ラトルはきっと、ベートーベンという巨人の精神の具現化に奉仕したことに生きている意味を見出していたに違いない。


真に普遍的な価値は開かれている。時代、場所、人種、年齢、性別、関係ない、すべてに開かれているし討議可能であるし、何より、それらに寛容でそれらを包摂する。
今が我慢のときだ。普遍的な価値を訴え続け、再度寛容で多様性に溢れた社会を構築しなければならない。
そのためには、普遍的な価値についての共通言語をもつあらゆる人々と連帯し、その価値の輪が拡張する生態系を作り上げることが王道かつ近道であると考えていた。

私は、そのために、この間、様々な人と会い、話し、議論し、対話し、熟議し、ときには否定と再生を繰り返し、この輪を作り上げることに邁進していた。

しかし、今回、自身の誤解を招く行動で、結果的に自分自身が邁進しようとしていたことを自分自身で後退させるようなことをしてしまった。疚しいことは一切ないものの、結果を見れば矛盾を生じさせる行動であったと思う。この点は、自身を厳しく顧み、律さねばならない。

さりとて、私の自分らしい「善き生」はここにある。否、ここにしかない。消失しそうな価値を語り、微小でもその価値を実現するために具体的な法律や政策という「かたち」にしていく、そのための言葉を紡いでいく。
私は学者ではない。実務家である。憲法の知識量なら学者に聞けばよい。そうではなく、憲法実務としての立法プロセスにおける様々な憲法上の諸価値の実現のための具体的方途や学者と立法現場との「懸け橋」「翻訳」「中二階」の役割を果たしたい。これは学者にも政治家にもできない。そんな自分らしい「公」に命をかけたい。自分にしかできない役割と信じたこの使命を果たしたい。そこに身を投じるべきであるという確信もある。しかも、今回のことで能力や腕が何ら衰えたり奪われるわけでは全くない、関係がない。むしろ、自身の鍛錬によりどんどん磨きをかけるのみだ。倍返しすればよい。何を恐れることがある。どこから石が飛んできたとしても、どんな壁が立ちはだかろうとも絶対にくじけない、私は立ち向かい、勝ち抜き、そして自分にしかできない使命に奉じる。
この決意を表現する最初の(ある種最後になるかもしれないという覚悟もある)場が、10月8日14時からのゴー宣道場である。

憲法改正論についても、私は、権力統制規範としての憲法の再生という観点から、9条も含めた改憲を提言する。これは、9条にかぎらない、パッケージである。日本の憲法論議の問題の一つは改憲論議=9条になってしまっているところだ。憲法改正は将来にわたって、憲法制定権力たる我々個人一人一人がどのように国家のグランドデザインをするのか、というビジョンと切っても切り離せなせない。どうやったって中長期的、段階的な議論になるはずである(もちろん安倍加憲のようなおそまつな二段階論のことではない)。この視点を欠いた「安倍加憲」も、いわゆる「護憲」もどちらも「無責任」である。
ただ変えればよい(変えやすいところを探す)、もしくはただ変えなければよい、という二項対立はもううんざりだ。

この提言に是非賛否を含めた激しい議論を期待している。批判にさらされない表現ほど脆いものはないし、これを経ることが熟議であり、「立憲的思想態度」である。

すでに書いたところでチェリビダッケが言及したとおり、大事なのは「生」で体験することだ。そのときの空間の体験は一つとして同じものはない。熱気、体温、空気、人数、体調、天気etc…これらが一つでも同じことはないのだから。
この「生」が、10月8日のゴー宣道場には、ある。

そして、このような場を提供していただいた師範の皆様、門弟やスタッフの皆様、そして、ゴー宣道場をやあらゆる媒体を通じて今もなお応援してくださる国民の皆様、本当にありがとうございます(ここは心からの感謝を込めて「ですます調」で書く)。

このような心意気の総体に応えられるようでなければ、男ではない。
是非、私の一世一代の場を「生」でご覧いただきたい。締め切りは9月27日、今週水曜日だ。

もしここで納得いかない低次元の言論や情熱が語られたなら、一斉に声を上げてほしい

「おお友よ!そのような音楽ではない!」(シラー:『歓喜に寄す』)

「真の憲法改正とは何か?

平成29年10月8日(日)午後2時 から
『人事労務会館』 にて開催します。

「人事労務会館」
(住所:東京都品川区大崎2-4-3 )は、
JR山手線・埼京線・湘南新宿ライン・りんかい線
『大崎駅』 の 北改札口 を出て左へ、
「西口」 側の左階段を降りて、徒歩3分です。

毎回、会場の場所が分からず迷われる方が、多くいらっしゃいます。

人事労務会館のHPにて、場所をよくご確認の上、ご来場下さい絵文字:重要
(HP掲載の、駅から会場までの地図を印刷し、持参されることをオススメします )

詳しくは、 “ こちら ” でどうぞ。

「第66回・ゴー宣道場」のテーマは
『真の憲法改正とは何か?』とする。

前回、井上達夫氏と枝野幸男氏を招待し、激論を交わして

いただいたが、そもそも政界においては、自衛隊は合憲で

あるという事が分かった。

 

ならば、安倍政権の自衛隊明記の加憲論の意味などない

ということになる。

安倍政権は今も違憲状態の自衛隊に、予算をつけている

ことになる。

 

やはり、真の憲法改正について、議論しておかなければ、

欺瞞と倒錯の中で北朝鮮との戦争が始まるかもしれない。

 

10月8日は議論の主軸を倉持麟太郎氏に担ってもらう。

倉持氏は全国各地の都市で、憲法の勉強会を開いている。

その実力を発揮してもらうために、今度の「ゴー宣道場」

において、まず30分の基調講演をしてもらいたい。

それをベースに議論を進めようと思う。

 

憲法改正がなぜ必要なのか?

どの条文を変える必要があるのか?

エセ保守の憲法改正のスローガンが本気ではなかったと

いうことが判明した今、我々「ゴー宣道場」が真剣に

立ち向かわねば、日本は手遅れの国になってしまう。

 

参加申し込みの締め切りは9月27日(水曜)である。

弛緩したこの日本を洗濯しなければならない。

奮って応募してくれ!

当日、道場の入場料は、お一人様1000円です。


参加ご希望の方は、このweb上の申し込みフォームから申し込み可能です
絵文字:重要絵文字:パソコン

上 ↑ のメニュー「道場参加申し込み」もしくは下 ↓ の申し込みフォームバナー(画像)
クリックして、申し込みページにお進み下さい絵文字:よろしくお願いします
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ご注意ください絵文字:重要


申し込み〆切後、当選された方にのみ「当選メール」を送らせて頂きます。

当選された方は、道場当日、
その「当選メール」をプリントアウトの上、会場までご持参下さい。
プリントアウトができない方は、当選メールの受信が確認できるもの
(携帯電話、タブレット等)をお持ちの上、ご来場ください。

 道場参加申し込みフォーム

応募〆切 は 平成29年9/27(水) です。

当選通知の送付は、応募〆切後になりますので、しばらくお待ち下さい絵文字:よろしくお願いします

皆様からの多数のご応募、お待ちしております絵文字:重要絵文字:晴れ


倉持麟太郎

慶応義塾⼤学法学部卒業、 中央⼤学法科⼤学院修了 2012年弁護⼠登録 (第⼆東京弁護⼠会)
日本弁護士連合会憲法問題対策本部幹事。東京MX「モーニングクロ ス」レギュラーコメンテーター、。2015年衆議院平和安全法制特別委員会公聴会で参考⼈として意⾒陳述、同年World forum for Democracy (欧州評議会主催)にてSpeakerとして参加。2017年度アメリカ国務省International Visitor Leadership Program(IVLP)招聘、朝日新聞言論サイトWEBRONZAレギュラー執筆等、幅広く活動中。

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